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教育ジャーナル Vol.22-2

■ 授業参観

今また、不易であるための流行
~日本の先生たちはすごい!
第2回では、実際の授業の様子をお伝えする。

■授業参観

今また、不易であるための流行
~日本の先生たちはすごい!

【全4回】第2回

教育ジャーナリスト 渡辺 研

 
比較的最近の中教審の分科会などの議論の中に、久しぶりに「不易と流行」※という言葉を見つけた。
まさに今、「学校教育の『不易と流行』を考えてみよう」と言われているように思う。
いつの間にか、学校に託された役割は膨大に膨れあがってしまった。本質を揺るぎないものにするために、
授業を改善し、ICT を活用し、前年踏襲の仕組みを変えてみる。ようやく、そんなふうに学校が動いている。
学校教育の代表である授業は、どう変わってきているのか。
第2回では、実際の授業の様子をお伝えする。

※「不易流行」蕉風俳諧理念の一つ。解釈には諸説ある。一説に、俳諧には不易(永遠に変わらぬ本質的な感動)と流行(ときどき新味を求めて移り変わるもの)とがあるが、不易の中に流行を取り入れていくことが不易の本質であり、また、そのようにして流行が永遠性を獲得したものが不易であるから、不易と流行は同一であると考えるのが俳諧の根幹である、とする考え方。(学研・四字熟語辞典より)

学習者のたたずまい

 子どもたちは、普通の教室内風景のように着席して3時間目の始まりを待った。学校はオープン型の教室で、もともと開放感がある。こうした造りだけでも学習に向かう気分は変わる。
 授業が始まる。「前の時間も自由進度だったので……もう1回しゃべったほうがいいですか?」と荒木教諭が声をかける。「いらないです」「大丈夫」と子どもたち。「じゃあ、何するかわかっていますね。どこで学んでいるか場所を知りたいので、マグネットを貼り直してください」と先生。
 学ぶ場所は教室、学びあルーム(旧PC室)、図書室の3か所。3教科だから3か所に分かれるということではない。自分や自分たちのグループが学びやすい場所を選択する。
「2時間目はいい話し合いができていたと思います。『道の駅』のCさんたちから大変いいアイデアが出たんだけど、『それを紹介していい?』と聞いたら『マネされるから絶対ダメです』と言われました。インパクトがあって季節に合ったものを考えてくれていました。では始めます。みんなのほうから確認することはありますか?」「ないです」「ふだんどおり頑張ってください」
 こんな会話が交わされたあと、それぞれの学習場所に散っていく6年生の姿に、自らの学びに向かう学習者のたたずまいを感じた。それがとても印象的だった。

主体的な学びの姿かもしれない

 学びあルームに行ってみた。人気の場所だ。国語、PBLのグループがいて、一人で社会の調べ学習をする子がいる。
 グループでも個人でもノートは使わず、すべて端末に記録する。やがて、全国どの教室でもこれが当たり前になるのだろうか。
 ただ、ノートを使わないわけではなく、各人の選択に任されているそうだ。結果的にはタブレット端末を選択する子がほとんどだった。それは、自分で情報を集め、思いついたことをメモする段階の学習だったから、タブレットに入っている思考ツールを用いて考えを整理していた。子どもたちの機器活用は想像以上に進んでいる。
 目の前の6年生は、4年生のときからこの学び方を経験してきた。だから、この時間に自分は何をしなければならないかを理解している。教師が目の前にいなくても、自分(たち)が解決しなければならない課題に取り組む。近くにいるグループや同級生が違う教科を学習していても気にしない。その場を離れて、ほかのグループをのぞきに行ったりするなどの態度は見られなかった。
 主体的な学びとは、こういう姿の実現をいうのかもしれない。
 普通に教室内で行う授業の中でも、今では当たり前にグループ対話が行われる。でも、教師の目が届かない場所でもちゃんと学習を進めていくには、子どもたちが学習者としての自覚をもつことが前提になるだろう。なぜかこの子どもたちの姿を、自由進度学習という言葉で表すことに違和感を覚えた。協働的はまだしも、個別最適な学習とも何か違う。理由は判然とはしない。
 さて、〝学習者たち〟はどう学習していたのか。事後研での参観者からはこんなエピソードが出された。二つ紹介する。
◆(国語)パンフレットの下書きの漢字にルビをふっていた。荒木教諭の指導ではなく、自然に生まれた後輩への心づかい。
◆(PBL・道の駅グループ)話し合いが停滞し、「じゃあ、やっぱり、もういっぺん『道の駅』に行ってこよう」「おばあちゃんに聞いてみる。いいって言ったら行ける」「なんで、おばあちゃんの許可がいるの?」「車で送ってもらえるから」――という会話が交わされていた。学習のポイントは「やっぱり、もういっぺん行ってこよう」だ。
 教師の指示を待ち、教師の顔色をうかがうのではなく、課題解決のために何をすべきかを判断する。「道の駅」に行ってみれば、何かつかめるかもしれないし、無駄足かもしれない。その判断が正しかったかどうかは、自分で確認できる。それも学び。学校ではこんな学習者を育てたい。
 時間になって子どもたちが教室の自席に戻ってきた。全員がそろうと簡単に全体共有。
「『道の駅』のクチコミを見て、直さなきゃいけないところがいろいろあることがわかりました」。なるほど、クチコミも一人1台端末時代の情報収集法かもしれないし、それならそれで、〝ファクトチェック〟(例えば、再び「道の駅」に行ってくる子どもたちとの情報の照らし合わせ)など、情報活用能力の育成も不可欠になるだろう。
「できる範囲で最大限を考えて、アイデアを出してください。来週、社会は全員で共有します。国語とPBLはもう少し時間を取ります」と荒木教諭が確認をして「金曜日の3時間目」は終了した。
 この45分間で、頭にあった授業の概念が一変した。黒板の前に教師が立ち、児童・生徒は縦に数列で教師のほうを向いて座って(スクール並び)全員で同じ授業を受ける(一斉授業)。本当にそのスタイルが、〝学習者たち〟にとってベストの方法だったのだろうか。指導案を見たときのとまどいがうそのように、この学び方になんの違和感もなくなっていた。
「離席する子もいた現6年生が4年生のときに試みて、みんなが学習課題に向くようになったことが成果でした」と小山田校長はおっしゃっていた。一斉授業に窮屈さや閉塞感を感じていた子どもがいたのかもしれない。

自由には責任が伴うことを学ぶ

 子どもたちが学習する姿を見ながら、荒木教諭にお話を伺った。形だけをまねたのでは失敗しそうなことは、教師でなくても想像がつく。〝45分間で何も学ばなかった〟という児童がいないように、この学習形態が成果を生むための大事な点は何か。
 この単元で何を学ぶのか、学習のねらいや課題を全員で共通する時間は、一斉授業で行い、時間割も固定。
 「例えば、今日の社会科は、課題を設定して、自由進度の2時間で考えをまとめ、次回は一斉でそれを共有して、考えをさらに広げます。個人評価をしたいので、最後はレポートをまとめてもらいます。普通に行われる一斉授業でも、自分で考えを形成する段階とか調べる段階とかがありますね。それを一斉という〝囲い〟の中でするのではなくて、今週中のいつでもいいよと、個人に任せる時間を設けて、それをつないでいるだけなんです」
 〝今週〟というくくりでみれば、同じようには学習していなくても、同じことは学習している。
 やるべきことを確実に押さえておけば、時間的、空間的な〝囲い〟の中で学習するよりも効果的かもしれない。
「そうなんです。やることは同じなんですが、それを、みんなで教室に集まってやるかどうかなんです。それでも、どこで学習してもいいとか、自分で時間割を組めるとか、すごく楽しんでいますよ。だから、仮に今日、私が休んでも、それぞれ自分で学べます」
 ただ、教師からすれば、子どもたち全員を視界に捉えることはできない。その不安はないのだろうか。
「当然、全員は見きれないので、手を抜く子たちもいると思います。ただ、中間発表をしたり、振り返りを提出させたりするので、学習が進んでいるかどうかはチェックできます」
 自由をいいことにさぼってしまえば、中間発表などで、その〝ツケ〟を思い知らされる。子どもたちはそこで、自由には責任が伴うことを学んでいく。
 そうやって自立した学習者の自覚が生まれてくるのだろう。
「そうだと思いますね。自由だけど、ちゃんとやらなければならないと。やり始めた4年生の頃は、失敗もありました。子どもたちと『そんなことではこういう授業はできないね。でも楽しいよね。どっちがいい?』と話し合う。そういうことを、何回も繰り返してきました」
 ここを我慢できるのが教師の意識改革。
「教師が進めていく一斉授業なら、本当に子どもみんなが理解できているかといえば、必ずしもそうではないと思います。こうして自由にすると、できる子たちは自分たちでどんどん進めていくので、一方で教師はサポートが必要な子たちに対応できるんですよ」
 一斉授業とどちらがいいかということではない。でも、〝みんなで一緒に〟が当たり前ではないのだなと思えてきた。

生きていく上で何が大事か

 授業を参観しておられた4年生担任の伊藤駿央教諭ともお話をした。4年生も自由進度学習を取り入れている。
「見ていないところに子どもたちが行ったりするので最初は不安でしたが、子どもたちの判断力も鍛えなければいけないし、いつまでも教師が見ていられるわけでもないので、子どもを信じるというか……。ある程度、失敗しながら、自分たちで気づいていかなければいけないと思うので」
 失敗しないように先回りして手を打つことは、必ずしも教育的ではない。失敗しながら子どもたちは、教師の意図に応えてきた。
「ある程度のゴールイメージがあれば、そこまで進めなければいけないので、遊んでいるわけにもいかないし。成果物を提出したり、テストで点数を取れたりは、少しずつですけど、できるようになってきています。まだまだ足りないですけどね」
 教師主導の授業なら、「自分が理解できないのは先生の教え方が悪い」と言い訳もできる。でも、この形態なら「自分の学び方が悪い」ことになる。
「与えられるだけでなく、『このことがわからない』と自分から求めていく。そういうところが生きていく上で大事だと思います。求められたら答えますけど、発信は常に教師ではないと思います。子どもたちが主体的になりやすいと感じます」
 教師がいなくても大丈夫ではなく、教師がいるから子どもは成長できる。教師とは子どもにとってどういう人なのか、改めて考えてみなければならないのかもしれない。

新味を求めて移り変わる

 少し背景も紹介しておきたい。お気づきだと思うが、谷地南部小学校は山形県の「新採教員育成・支援事業」の実施校で、対象者である白田実教諭のお話を紹介した際に学校の特色ある教育活動にもふれた。修学旅行の行き先決定もその一つ。子どもたちにとってかなり自由度の高いSUW(ステップアップワーク)個人総合探究、自分たちで進める授業、教科担任制など。
 今回の自由進度学習もその一つなのだが、導入の背景は中教審答申の「個別最適」「協働的」ではない。
 学校は令和3年度に、創立時(大正時代)の教育理念「自由教育」「全人教育」と「令和の日本型学校教育」の共通した考えをもとに学校教育目標を変えた。
 当時の「自由教育」の考え方は「児童には余り干渉主義は取らず、児童の個性と自主性、意志の養成/教育の任務は自然の自己発展を補助すること それは単なる受容でなく自発的なもの」で、「児童が自分の目で物を見、調べ、確かめて学習力を身に付け、好学心を養成していく取り組み」が行われていた(谷地南部小100年誌)。
「金曜日の3時間目」がそのまま当てはまる。
 続き。学校教育目標は「未来をひらき、しなやかに生きる力を育む教育」。〝社会人基礎力〟を基盤にして、授業・学級経営・学校行事・校内研などすべてを横断して培うのが「一歩踏み出す力(主体性)」「チーム力(協働・対話)」「考え抜く力(解決・創造)」の3の資質・能力。「金曜日の3時間目」は社会人基礎力に通じる。
 小山田校長は「成果が見えた」と言っておられたが、もう少し具体的に言うと「学びに向かう力が育ってきて、児童会や生活にも反映されるようになりました。そして、アンダーアチーバーが減少しました」とおっしゃる。エビデンスがどうこうではなく、きっとそうなのだろう。
 反面、「学力調査等に数値として表れる学力」が課題なのだそうだ。でも、目先の数値を上げるのは指導法の工夫であって、学び方の工夫によって上げるのは数値ではなく、学びに向かう力や社会人基礎力なのだろう。将来、教師がいなくてもテストがなくても学び続ける、そういう子どもを育てることこそ、学校には求められているはずだ。
「金曜日の3時間目」に懸念をもつ教師は多いと思う。実際、他校の教師も参加した事後研では「この形では見取りができない」ということが議論された。
 現実的には一斉授業との併用で運用され、子どもたちもそこに不満はなさそうだ。
「中学校も自立に向けた取組が始まっているが、単一教科の一斉指導はまだ残り、ギャップに悩まされないかという意見もあります。でも、自分で課題を見つけて探究することも、時には同一に決まったやり方に合わせていくことも、両方できる子になっていけばいいと思いますので、この取組を迷わず進めていけるよう、担任たちを励ましていきます」(小山田校長)
 中学校では絶対に無理なのか、どうすれば可能かと少しだけ想像してみてほしい。





【第3回へ続く】

次回の予定

7月22日(月)
今また、不易であるための流行 第3回