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教育ジャーナル Vol.13-5

「子どもの見取り」  
――見るだけでなく、読み取って、受け止める

~嶋野道弘先生インタビュー~

「子どもの見取り」
――見るだけでなく、読み取って、受け止める

~嶋野道弘先生インタビュー~

渡辺 研 教育ジャーナリスト

視界には子どもたちの姿。にぎやかな声が聞こえる。でもそれだけでは「子どもを見る」ことにならない。
授業改善に伴って、より重視されるようになった「子どもの見取り」。
教師たちは、本当に学ぶ子どもの姿を見ながら、主体的・対話的で深い学びにもとづく授業を行っているのだろうか。
「子どもを見る」「子どもの見取り」とはどういうことなのか、元文部科学省主任視学官・嶋野道弘先生にお話を伺う。

いったい何があるのだろう

 今年度も横浜市立鶴見小学校でスタートカリキュラムが公開され、嶋野道弘先生が協議会の講師を務められた。そこで、外遊びのさなか、遊具には目もくれず、花壇のそばに座り込んで、花壇の縁を歩くアリの行動を食い入るように見ていた子どもたちと交わした会話を紹介された。入学したての子どもたちにも学びの姿がある。そんなエピソードだった。
 今回にかぎらず、嶋野先生はこうした機会には必ず子どもの姿を例に話をされる。ご存じの先生方も多いことだろう。

 ── 紹介される子どもたちの姿は、その場にいた教師や参観者も見ているはずです。にもかかわらず嶋野先生だけが目にとめ、もう一歩、子どもたちに近づけるのはどうしてなのでしょう。何か子どもから「見て、見て」とサインでも出ているのですか。

嶋野 それはね、子どもが一人で何かに没頭しているとか、数人でガヤガヤやっているとか、大勢がいつまでも集まっていれば、そこには必ず何かあるのですよ。だから行ってみる。それを直感というかなんというかは別にして、子どもの世界に興味、関心をもって気にとめる。気にとまる人ととまらない人がいるでしょう。違いは、「子どもが何かしているときには、いったい何があるのだ?」という思いがあるかどうかです。

 ── 根本的にはその違いなのですか。

嶋野 まずはそれです。子どもの行為への興味、関心。“子どもの世界の扉が開くかどうか”。見ているだけでなく、子どもの世界に入っていかないとだめ。「子どもをよく見なさい」と言うと「見ています」と言う。だけど「見る」はそういうことだけではないのです。だから、「見たら、捉える」と言ったほうがいいと思う。それが「見取り」。見ればわかることと、見ただけではわからないことがあります。見てわかることでやめてしまう人と、さらにその先までわかろうとする人との違いでしょう。「見る」というのは、そのときの状態を見るわけだから、アリの動きを見ている、というのは見ればわかることです。「捉える」というのは、なぜ子どもがそこに興味・関心を向けているのか、どうして釘づけになっているのか、なぜ根気強くそこに居続けるのか、ということは見ただけではわかりません。解釈が必要です。解釈というのは物事や人の行為などを自分なりに判断し、理解することでしょう。
 それには3つのステップがあります。まず事実を多面的と捉える。次にその事実をもとに推測、推察、推量する。そして解釈するわけです。解釈しても的を射ているかどうかわからないけど、子どもの行為する世界に近づくことができる。そこが違うのではないかな。

 ── 解釈するには、離れて見ているだけではなく、物理的に子どもたちに近づいて、のぞき込んで見るのですね。

嶋野 アリの話のときも、何も言わずに一緒に見ていた。それで同じ世界に入れる。そうすると子どものほうから話しかけてくるわけですよ。「アリはここから入って、向こうから出ていくんだよ。この中がつながっているんだよ」と。なるほど、そんな想像をしているのか、それは興味深いわけだ、と思うわけですよ。

 ── 子どもの世界に招き入れてもらえるのですね。解釈するときには、小学校の先生方は「10の姿」と照合するといいのですか。

嶋野 このことを確認しようと視点を決めて見るのではなくて、それこそ景色でも見るように子どもたちを見て、「うん?」と気にとまったことについて照合して、「ここは育っているな」と確かめる。視点を決めて見ると、そのフレームに入れてしまいます。子どものもっている世界はもっと広いですよ。

 ── そこだけ見ようとすると、もっと興味深いことを見逃してしまいますね。

子どもたちを否定的に見ない

 ── 少し余裕をもって子どもの世界を見ることができるのが、スタカリだと思います。子どもたちには、学校でもやっていけると自信をもつための時間だと思っているのですが、教師にとっては、どんな時間なのでしょうか。

嶋野 おもしろい質問だね。
 ぼくはこう考える。学校の生活や学習の時間を子どもたちと共有しながら、子どもたちの持ち味を出させる時間。何か教えようとか、何かさせようとするのではなく、一緒に遊ぶとかね。もう一つ言えば、人間関係の空気をつくりだしていく時間じゃないかな。“慣れさせる”とか“しつける”とかすると、空気がトゲトゲしくなってしまう。
 空気を和やかにして、子どもとの距離感を縮めておくと、いつの間にか子どものほうから近づいてきますよ。

 ── 鶴見小学校のように長年続けてきていると、あの時間はゆったりとした空気が流れているように感じます。でも多くの場合、先生は教えようとするみたいですね。「職員室に入るときはノックして」と教えてから学校探検に出すとか。

嶋野 まずは様子を見ることがいいんですよ。そこで、「あ、こういうところまではできるのだな」と、そういう見取りができるわけですよね。そこから新たなかかわりが始まるわけで、そういう意味では子どもを見ていない。見る前に「これを教えておかなければ」「これをしつけておかなければ」と、そっちが先行してしまう。

 ── ひと昔前からすると、だいぶよくなったと思いますが、それでも大人の都合のようなものが顔を出してしまいますね。

嶋野 子どもを見るだけではなく“捉える”という概念を入れたほうがいいと言ったでしょう。見取ろうとする教師には「子どもが見えなければ手の打ちようがない」という信念が必要なんですよ。
 もう一つ、子ども観が影響するんですよ。よく見ている人は肯定的な子ども観に立っていますね。子どもを否定的に見ない。そこには何か子どもなりの訳があるとか、経緯があるとか、そういうように見ようとする。見取ったら、次のかかわり方に生かしていく。そのへんが教育の出発点ではないのかな。
 そういうことを教師がスタカリの時期にやっておけば、その後、ずっと続いていく。

 ── ここから学校生活は10年以上も続くわけですから、その始まりのわずか数週間、早く学校のやり方に慣れさせなければとせかすことはないですね。

嶋野 子どもと空気を共有するとか、場を共有するとか、それが非常に大事。スタカリは“適応指導”ではないのですよ。

自分にとって意味があるか

 小学校中学年・高学年、中学生の場合は「主体的・対話的で深い学び」に視点をおいて、子どもをどう見るかを教えていただくことにした。主体的な学びの姿や学びの深まりを、子どもたちが実感した姿をどう見取るのか。教師は今、学習者のこういう姿を確認しながら授業をつくろうとしている。「授業では対話の時間を設けた」だけでは十分ではない。

 ── 先生方は、“深い”が一番わからない、“対話的”はわかる、“主体的”もわかるとおっしゃるのですが、実は“主体的”が意外に難しいのではないかと思っていました。主体的に学ぶ姿は、授業をする先生方にはわかるものなのですか。

嶋野 主体的、自発的、自立的、自主的などの似かよった言葉があって、それぞれの概念が区別されていないのですよ。主体的とは認識や行為の主体者である自分の立場で感じ、考え、判断し、行動することを意味します。だから、“課題を自ら見つける”というのは自発的なのだけど、そのとき子どもがどれだけ自分の立場で物を感じ、考え、判断しているかというところが大事なのです。そこが押さえきれていないのではないかな。

 ── “受け身ではない”という大まかな捉え方がされているようです。

嶋野 主体的で大事なのは、“自分にとって意味があるかどうか”。自己有意性。これが学びに向かう力を育てるのですよ。自分にとって意味がないことでも、やらなければいけないと思えばやりますが、長続きはしないでしょう。だけど意味があるとか、やってみる価値があるとかを考えれば、例えば、ボランティア、無償であっても大人も子どももやりますね。やりがいがあるとか、自分にとって意味があるとか、これが主体的の本質です。総合的な学習の時間でよく言うけれど、「自分事になったかどうか」。

 ── それはわかりやすいですね。

主体的な学びのための振り返り

嶋野 主体的な学びの姿をどう見取っていくのか。主体的な学びをつくる手立ては、学習指導要領では「見通しをもって粘り強く」とか「振り返って次につなげる」とかいう「見通し」と「振り返り」が明示されています。この振り返りも、あまりはっきりしていないと思います。
 授業のはじめに「前の時間を振り返ってみよう。何を学習した?」というのは復習という意味の振り返り。授業の終わりに「黒板を見て、今日学んだことを、振り返ってまとめてみよう」は、学んだことの整理や確認という意味の振り返り。まとめをした後の授業の最後に「今日の授業は自分にとってどうだった?」というのはリフレクションという意味で、振り返って次につなげるための振り返りなのです。新しい概念なので、それがごちゃごちゃになっている。

 ── 今日の授業の何が自分には意味があったのかと自分で確認するわけですね。

嶋野 そう。メタ認知的自己モニタリングと言ってもいい。主体的な学びのための振り返り。子どもが自分で、この時間の学びが自分にとってどんな意味や価値があったかなどを推察する。本時のまとめまで終わったら、「自分にとってどうだった?」と問いかけて、数分間、書かせるといいですね。中学校でもこういうことを書かせるようになって、「何々が身に染みてわかった」と書いてくる生徒がいますね。

 ── 授業者としては感激ですね。
(見せていただいた資料には、「私はこのようなことをよく考えないで解いてしまうことが多いので、それをなくすことを頑張っていきたい」と書いている生徒もいた)

嶋野 とてもよく自分を見つめているでしょう。自己認識、自己発見なんだよね。これを通して努力調整という能力や態度が養われます。失敗してもやり直してみようとか、自分を見つめ直して弱いところを見つけて次はこうしてみようとか、自分で努力すべきことを調整していくわけですよ。それが振り返りの中に出てくる。学びに向かう力はこういうところから見取ることができる。

 ── 今はどんな授業でも、ほぼ振り返りを書かせます。そこを工夫することで、学習者は自分の学びを自覚し、授業者はその姿を見取ることができるのですね。

嶋野 そのとおりです。もう一つは見通し。授業のはじめに「目当て」を確認して、子どもが見通しをもてるようにする。見通しは、これから始まる学習の予測であり洞察です。見通しには、「答えはこうなりそうだ」という解決の見通し、どういう手順でやればいいかという順序の見通し、時間の見通し、方法の見通しなどがありますが、そこでやめない。自分はそれができるかもしれないという可能性の見通し、これからやる活動がよい結果を導くだろうという見通しや、自分はうまく行えるだろうという効力や期待の見通しが、子どもを主体的にし、意欲的にするのです。
 だから教師は、目当てを確認したら、「どうしたら課題が解決できる?」「課題は解決できそう?」と言葉をかける。それが主体的な学びをつくる手立てになるのですよ。

 ── 見通しによって、これから始まる授業そのものを自分事にするというイメージが浮かびます。単に授業を受けるというのではなく、課題解決のためにこの学習に参画するというような。

子どもの学びの事実で語る

 特に意図はなかったのだが、対話的よりも深い学びを先に伺った。

嶋野 深い学びには「知識を関連づけてより深く理解する学び」とか「情報を精査して考えを形成する学び」とか、いくつかの手立てが示されているけど、子どもの学びの事実で語らないとわかりにくいと思う。
 例えば、問題が出されて、その解決方法をグループごとにホワイトボードに書いて、それを全部、黒板に貼るでしょう。
(例に挙げていただいた問題
 =単価Aのものを6つと単価Bのものを6つ買う場合、総額はいくらか。子どもたちが考えた解決方法は①A×6+B×6、②(A+B)×6、など)

嶋野 貼っているときに、子どもたちから「あれ? 式が違うのに答えが同じだ!」「式が4つある」「考え方が違う」と声が出る。先生がかけ合いを通して声を引き出し、それを丁寧に拾って整理していくと、各グループから出た4つの式が「いっしょ式」と「べつべつ式」の二つにまとまっていく。こういう姿が深い学びの一つの例です。これまでの授業はホワイトボードを貼ったら、その先は先生がまとめてしまう。黒板に貼った各グループのボードは深い学びのための二次教材で、これを使って学び合いに入っていくのです。

 ── 確かに、グループ対話に多くの時間をさくので、総じて全体共有の時間が少ないように思います。

嶋野 深い学びまで行きつかない。せっかく各グループから出てきた情報が黒板に貼り出されているわけだから、これを比較したり、関連づけたり、分類したりして、深い学びにもっていくところなのだけど、貼ってグループごとに発表して、そこで時間切れ。

 ── そうですね。数人のグループ内での学び合いだけでは深まりがないですね。

嶋野 貼るということは発表させたということなのです。貼っていくうちに「自分たちと同じだ」「やり方が違う」と見ているわけですよ。それが子どもの事実。だからいちいち順番に発表させる必要はなく、「説明を加えたいグループはある?」「何か質問ある?」と聞けばいい。杓子定規に進めてしまうと、肝心な深い学びにまでいかないのです。

 ── ほかのグループはどうだったか興味があるから、必ず何か反応しますね。

嶋野 深い学びの一番大きい手立ては、教師のファシリテーションです。子どもたちが考えてきたものを、どう関連づけたり比較したりするかと。そこをやらないと資質・能力が高まらない。唯一の正解にたどり着けばそれでいいという“唯一正解”の域を脱していない授業がまだまだありますね。

なるほど そうそう あれっ!?

 ── かつては授業にあまり参加しなかった 児童や生徒も、グループ対話では発言するようになったと聞きます。そういう様子は教師にも見えると思いますが、対話的な学びにも何か見落としや勘違いがありますか。

嶋野 対話的な学びの手立てのポイントは、思考などの見えにくいことを「見える化」することです。考えを発言させても具体的には見えないし、考え直してみようと思っても発言は消えてしまうので、例えば、付箋紙に考えを書いて机に並べて、それを動かしながら対話する。並べているうちに「同じのがある」「反対の考えだ」「これとこれは関連している」と子どもたちは言い始めて、それを意図的に分類して並べていく。そうやっているうちに立ち上がって身を乗り出してくる子も出てきます。言葉だけの対話ではこういう姿は見ることができないし、学びも深まりません。近頃は「見える化」を工夫したアクティブな授業が増えてきていますね。

 ── グループ対話はずいぶん充実してきた印象があります。中学生が「なるほどね、わかった」「あ、そうやればいいのか」と素直に声を出すのですよね。聞いているこっちもうれしくなります。

嶋野 対話的な学びや深い学びは、その「なるほど」とか「そうそう」とか「あれっ!?」が大事ですね。納得、共感、驚き。このつぶやきが出てくるのは、対話的で協働的な学びが深まっているからで、教師はうれしくなってくるはずです。そこに足を踏み入れた教師は好循環を起こして、授業改善も進んでいきます。

 ── 参観していると、このつぶやきも聞こえてきますが、教師にも声が届いているのかと思うのですが。

嶋野 届いていますよ。ただ、このことを教えようと、そこにばかり集中しすぎて、子どもの声が聞こえない先生もいますね。「他者の他者性」という認識が必要です。教える人と学んでいる人とは違う人ですよね。だから、教えたとおりには学ばれてはいない。自分に引き寄せて学んでいるわけですよ。

 ── 教師はそうしたつもりでも、児童・生徒のほうはそうは受け取っていないとか。だからこそ、子どもの反応をよく見ないといけないわけですね。

嶋野 子どもの言葉が聞こえるわけだし、表情にも行動にも態度にも表れるわけだから、見えているんですよ。『五輪書』の中に「観の目」「見の目」ということが書かれています。「観の目」は離れたところから全体を俯瞰する。「見の目」は近くに寄ってよく見る。教師にはこういう両方の見方が必要なんでしょうね。パッと見ながら、「うん? なんだろう?」と思ったら、そこに行ってよく見る。

子どもの学びには文脈がある

 ── 授業をしながら、特定の子どもを見るということはあるのですか。

嶋野 ありますよ。学びには文脈があるんですよ、前の時間から今日の時間とか。前の時間はこうだったのだけれど、今日、この子はどうなっているのかなとか、そういうふうに見ます。あるいは、この子はいつもこういう物の見方をするのだけれど、今日のこの課題ではどうだろうと、意図的、目的的に見ることはたくさんありますね。
 座席表などに子どもの発言を記録する先生もいます。何時間かやっていると、記録がいっぱいになる子もいれば、ほとんどない子もいる。記録が少ない子は、じゃあ次の時間はこの子をよく見ておこうと、意図的に子どもを決めて、何時間かかけて全員を見ることは大切ですね。

 ── それこそ振り返りを読んで、子どもの学びの状態をつかんでから注意を向けることもあるわけですね。

嶋野 そうです。その意味でも振り返りには“自分”を書いてもらわないと。授業のまとめのような振り返りでは、みんな同じようなことが書いてあって、この子を見てみようという観点が見つからないですからね。

子どもを見る経験値を増やす

 ── 教師が子どもを見取れるようになるには、日頃、どのようなことを心がければいいのでしょうか。これまで伺ってきたお話のまとめのような感じですが。

嶋野 まずは信念をもつこと。例えば、子どもを見なければ手の打ちようがないというようなこと。それから、子どもを見ていて、“見えた”というエピソードを集めたり、積みあげたりすることですね。「これが子どもなのか」とか「子どもってこうやって見ればいいのだな」とか、いわば教師の自覚的な子どもを見る経験的法則。こういうのを一つでも二つでも増やしていけばいいのではないでしょうか。
(そう言って、大事に優しく両手で包むようにひよこを持つ子どもの写真を示された)

嶋野 こういう体の振る舞いはとても大事なんですよ。この姿からいろいろな解釈ができる。小さな生き物への愛情や愛着があるかとか、か弱いものをどう扱うのかとか。子どもは言葉ではまだまだ説明が十分ではないけれど、こんなふうに体で気持ちを示してくるから、いい姿だなと見て、見るだけではなく、読み取って、解釈して、受け止める。
 でも、教師1人の経験の範囲ではエピソードがたくさん生まれるわけでもないし、集められるわけでもないから、人の話を聞くことも大事だし、本を読むことも大事です。お薦めは『銀の匙』(中 勘助)。この本は、大人の目で子どもを見ているのではなく、子どもになって子どもを描いています。