〈対談〉SDGs×キャリア教育 ①
(2023年2月28日更新)
株式会社植松電機 代表取締役 植松 努
一般社団法人グローバル教育推進プロジェクト(GiFT) 理事 木村大輔
未来を担う子どもたちがそれぞれの生き方を見つけるため、どんなサポートをすればよいかお話を伺いました。
さまざまな巡り合わせ
司会 まずは、ご自身のキャリアのきっかけや転機となった出来事について教えてください。
植松 僕が三歳の時に、アポロ十一号が人類史上初の月面着陸を成功させました。その様子は忘れましたが、一緒にテレビを見ていた祖父がとても喜んでいたのを覚えています。以来、大好きな祖父の笑顔を見たいという思いから、ロケットや飛行機を造る会社で働くことが僕の夢になりました。大学卒業後、飛行機の設計に関わる仕事ができた時はうれしかったです。ところが、入社して二年ほど経ったある日、ふと「僕の夢はすでにかなってしまった」ということに気付き、先の自分が見えなくなりました。毎日夜遅くまで仕事をして、休日はなんとなく街に出て遊び、お酒を飲んで……。心の片隅に虚無感のようなものを感じていたのです。
結局、約五年勤めて退職し、地元の北海道に戻りました。父の仕事を手伝うところから再スタートしたのですが、どうも父との折り合いが悪い。そんな時、リサイクルの仕事で困っているという人から、電磁石が欲しいと相談を受けました。そこでマグネットを開発すると、特許を取ることができました。
これを機に、「株式会社植松電機」として法人化し、本格的な事業をスタートさせます。当時の僕は、「このままずっとリサイクル関係の仕事をしていくだろう」と思っていましたが、いろいろな巡り合わせがあって、北海道大学大学院工学研究科教授の永田晴紀先生と知り合いました。永田先生が安全なロケットエンジンの開発をしているというので、「安全なら僕たちでも造ることができますか?」と聞くと、先生は「そうですね」と(笑)。「ならば、一緒に開発をしましょう」と話が進み、現在に至ります。
木村 私はキャリアの転機について振り返ってみようと思います。父が体操の指導者をしていた関係で、私は幼いころから体操競技をやっていました。夢を持ち頑張ったのですが、かなわない現実にぶつかりました。何を目指したらいいか分からず迷う中で、英語を使って仕事をしたいと思うようになりました。
内閣府の国際交流事業に参加し、自分で希望して開発途上国へ行き、自分が生きてきた環境とは全く違う世界を目の前にして衝撃を受けました。インドで出会った物乞いの子どもたちに対して何もできない自分への嫌悪感や、搾取され続ける人たちを生む社会構造に対して怒りを感じ、「社会を変えたい」「自分にできることはないか」と考えるようになりました。
懸命に勉学に励み、金融業界へ進みますが、専門性を養う必要を感じ、大学院で開発援助の勉強をしました。院卒後の就職活動で外資系金融機関の内定が出ましたが、リーマンショックの影響で取り消されてしまいます。
「ならば、自分の力でやっていこう」と、フリーのコンサルタントとしてスタートしました。さまざまな仕事をする中で、友人から声をかけてもらい、GiFTに参画しました。
「どうせ無理」に挑んだロケット開発
木村 ロケット開発をすることになったきっかけを、もう少し詳しく教えてもらえますか?
植松 株式会社植松電機を設立したのは、僕が三十四歳の時です。売り上げも順調でいい気になっていました。ところが、世の中は甘くありません。大手企業との独占販売契約が反故になり、二億円の借金を抱えたのです。僕は猛省し、会社の仲間の暮らしを守るために全国各地にでかけてマグネットを売り込みました。ところが、さらにひどい目に遭い……。「やられる前にやらないと」と、法律を猛勉強して、会社の利益を得るためにあらゆる手を尽くしました。
当時の僕は、自分のことに必死で、相手にも僕と同じように仲間や家族がいることをすっかり忘れていました。何もかも合理で考え、勝つことだけに執着しました。自宅では「遊んで!」とせがむ娘の相手さえ面倒くさくなり、全部捨ててしまいたくなりました。
そんな時、友人から児童養護施設でのボランティアに誘われます。僕たちが行くと、最初は知らない人を警戒し、子どもたちは誰も近づいてきません。それでも、一日過ごすうちになれてきて、夕方近くなると「帰らないで!」「だっこして」とよじ登ってきます。
ある子が自分の夢を僕に教えてくれました。それは「親と一緒に暮らすこと」。僕は愕然としました。「なぜ、自分を傷つけた親を愛しているのだろうか」と。どれだけお金を寄付しても、僕はこの子を救うことができません。なぜなら、寄付したお金はぜんぶ親に渡って子どものためには使われないから。ならば、うちの子にしようかとも考えましたが、とんでもない! 僕はさっきまで、自分の娘さえ捨てようと思っていた人間です。
僕がしてきたことは、人を負かすことと、食べていくためには仕方ないと働いてきたことだけです。そんな自分をすごく恐ろしいと思いました。
僕は子どものころ、学校にも家にも居場所がなく、叱られてばかりで、すべて「自分のせい」「自分が悪い」と思っていました。そこでたたき込まれたのは、「どうせ無理」という言葉です。暴力や自信剥奪は連鎖します。この連鎖に陥ると、攻撃先は自分より弱い者、つまり子どもたちへと向かいます。連鎖を止めるために、「どうせ無理」という言葉をこの世から無くそう、そうすれば児童虐待は無くなると思いました。そのために、誰もが「どうせ無理」だと思い込まされていることに挑まなければならない。このタイミングで永田先生から電話があり、「ロケットの実験をしたいが、場所も予算も無い」と言うので、逃してはならないと思い、ロケット開発に挑むことにしたのです。