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With Sports 「スポーツと生きる人」から、スポーツの今とこれからを知る

with Sports 稲田 弘さん (90歳の現役トライアスロン選手)

(2024年1月18日更新)

「スポーツと生きる人」から、スポーツの今とこれからを知る

稲田 弘 さん

トライアスロン種目の最高峰といわれる「アイアンマンレース」。スイム3.8㎞、バイク180㎞、ラン42.195㎞、総距離約226㎞を走る、世界一過酷なレースに挑み続けているのが稲田弘さんだ。91歳になる今年も、世界最高齢の現役選手として活躍する稲田さんに、レースのおもしろさや生涯にわたってスポーツを楽しむコツを聞いた。【取材・文/荒木 美晴】


 70歳でトライアスロンを始め、76歳でアイアンマンレースを始めた稲田さん。世界選手権には78歳から9年連続で出場している。コロナ禍による大会中止を経て、3年ぶりに挑んだ昨年の予選大会は、半月板損傷のけがが影響して制限時間オーバー。リベンジを誓った今年6月の同レースも、完走したもののランでのミスが響き、出場切符を手にできなかった。しかし、稲田さんの気持ちはすでに前を向いている。「91歳で取り返す」―。現在は、次の予選レースとなる12月のオーストラリアの大会に新設された「90歳以上の部」に向けて練習を重ねている。

 妻が難病にかかり、60歳のときに勤務先を退職。自宅で介護していた時期に自宅近くにスポーツジムがオープンし、自身の健康管理のためにプールに通い始めた。学生時代から運動好きだった稲田さんは、マスターズに出場できるほど泳ぎが上達。そこからスイムとランのアクアスロン、さらにトライアスロンを経て、アイアンマンレースに出るようになると、大会役員に勧められて、オリンピック選手も所属する地元千葉の「稲毛インターナショナルトライアスロンクラブ」の門をたたいた。
 毎日の個人トレーニングも欠かさない。バイクは100㎞以上、走る日もある。「俺は遅いから5時間以上かかるわけ。でも、その途中で好きな鰻を食べに店に寄ったりしてさ。マイペースに続けてるよ」と、稲田さんは笑う。 アイアンマンレースはコースによって16~17時間の時間制限が設けられる。若い選手たちははるか先を行き、自分の周りには誰もいない。レース終盤、コースは暗闇に包まれ、疲労に恐怖が加わる。「つらい。何度も心が折れる」。それでも走り続けられるのは、ゴールしたときの達成感が特別だからだ。とくに、2015年大会は忘れられないという。最後の花道に入ってから2度転倒してしまった稲田さんの背中を、沿道の観客が大声援で押してくれた。タイムは16時間50分5秒と、制限時間に「5秒」届かず失格となってしまったが、「それまで自分勝手に競技をしていたけど、このレースで応援してくれる人の期待に応えたいと思うようになった。モチベーションが大きく変わった」と、振り返る。

 体調管理のため、朝食と夕食は必ず自炊する。管理栄養士の指導のもと、14種類の野菜やキノコ類を入れた特製スープは、ここ何年も変わらない基本の献立だ。163㎝あった身長は、現在は161㎝に。体重はベストの53㎏を維持している。血圧は正常で、新聞も裸眼で読むことができ、病気とも無縁。一方で、90代になって骨がもろくなるなど、「老化を実感している」と稲田さん。それでも、新たなトレーニングを取り入れれば筋肉の成長や発見があり、実践すればタイムが伸びる。「その喜びこそが、原動力!」と力強い。
「毎日が本当に楽しい。この先やりたいことも、まだまだあるんだよ。大学時代にやっていた山岳でしょ。引退したら、作詞作曲もいいね」。人生の楽しみ方を、鉄人はその背中で教えてくれる。


PROFILE ● いなだ ひろむ
1932年、大阪府生まれ。早稲田大学卒業後、NHKで社会部記者として勤務し、60歳で退職。70歳でトライアスロンを始め、76歳でアイアンマンレースに初めて出場した。2012年に79歳で挑んだ世界選手権は、15時間38分でゴールし、年代別クラスで初優勝。この記録は現在も破られていない。2016年と2018年の記録は、ギネス世界記録に認定されている。90歳を超える世界最高齢の現役選手として活躍中。