with Sports 新井大基さん(日本ボッチャ協会職員)
(2022年5月13日更新)
「スポーツと生きる人」から、スポーツの今とこれからを知る
新井 大基 さん
年齢や性別、障害の有無を問わず誰もが楽しめるボッチャ。日本ボッチャ協会は、早くから普及活動に力を入れ、ファンの獲得や選手の育成に取り組んできた。その中心となって活動してきた普及部の新井大基さんに、競技との出会いやパラリンピック東京2020大会の舞台裏、ボッチャが持つ無限の可能性について聞いた。【取材・文/荒木美晴】
ボッチャは、ジャックボール(目標球)に自分のボールを投げたり、転がしたり、他のボールに当てたりして、いかに近づけるかを競う対戦型スポーツ。もともと重度脳性麻痺者や四肢機能障害者のために考案されたもので、パラリンピックの正式競技だ。競技特性上、障害の有無に関係なく誰もが楽しめるのも特徴で、世界の50を超える国と地域で親しまれている。
パラリンピック東京2020大会のテレビ放送では、『今のはビッタビタでしたね!』とオリンピックのスケートボードで話題になった名言を用いながら投球や戦略を細かくレポートし、視聴者を楽しませた。その解説を担当していたのが、新井さんだ。「初めて観る人も“ビッタビタ”が成功の投球であることがわかるように、と思って使用しました。また、僕が面白いと感じたまま話せば、みんなにより伝わるかなと思い、自分の感情や臨場感を乗せて解説していました」と語る。
新井さんがボッチャと出会ったのは大学時代。青春をささげた野球を引退し、卒業までの間に社会経験を積むべく始めた訪問介護のアルバイト先で、担当する利用者から競技アシスタント(自己投球ができない選手をサポートする人)に誘われたことがきっかけだ。その利用者は、当時日本代表だった奈良淳平選手。新井さんは「競技名を聞くのも初めて」だったが、とにかくルールを覚え、必死に練習に励んだ。すると、なんと世界選手権に出場し、その後のアジアパラ競技大会では団体の銀メダル獲得に貢献。まさかの急展開を振り返り「ありえない」と苦笑いしつつ、「数手先を読み投球する戦術は、ピッチャーの配球と似ていました。そのあたりがハマったのかな」と話す。
競技アシスタントは選手の指示に従って道具や投球の準備をする。試合中はコートに背を向け、振り返って試合を見てはいけない。選手とのコミュニケーションが鍵となることから、新井さんは「知ったフリはしない」と心に決め、日常生活を含め奈良選手ができることとできないことを一つずつ確認し、信頼関係を築いていったそうだ。
大学卒業後、日本ボッチャ協会に就職した新井さんは、選手の強化だけでなく、教育現場や企業での体験教室開催など、普及に尽力。じわじわと広がる認知度と人気を一過性で終わらせないために、ボールを正確に投げる楽しさだけでなく、「みんなで作戦を考えることにボッチャの魅力があるのだ」と、奥の深さを説き続けた。
新井さんが小学生に指導するとき、「最後までボッチャが障害者スポーツだとは言わない」そうだ。すると、児童は先入観なく一つのスポーツとして楽しんでくれる。「ボッチャという競技が面白くて僕はやってるんだよ、それで実はこういう障害がある選手がいてね、という順番で説明することにしています。そのほうが、子どもたちが抵抗なくパラスポーツや障害者に関われると思うからです。現場の先生方にも、障害者教育にこういうボッチャの使い方があることを知ってもらいたいですね」
現在国内では、キャラバン活動を行う「みんなでボッチャ1万人プロジェクト」、特別支援学校の児童生徒が競う「ボッチャ甲子園」、そしてトップ選手のみが出場できる「日本選手権」と、それぞれの立場でボッチャに取り組む事業がある。今後の展開を含めて、新井さんが考えるボッチャの未来像を聞くと、こんな答えが返ってきた。
「僕たちは、オリンピックの競技にボッチャを入れたいんです。健常者のルールを一部変更してパラリンピックで採用する競技は多いですが、その逆はないですよね? ボッチャは障害も性別も関係なく、70歳になっても80歳になっても日本代表になれる可能性がある。本当に社会を変えるなら、ボッチャが唯一、そこを目指せる競技だと思っているんです。みんなで壁を取っ払っていきたいですね」
PROFILE ● あらい だいき
1991年生まれ、愛知県出身。小学2年から野球を始め、名城大学では強豪野球部でピッチャーとして活躍した。在学中に訪問介護のアルバイト先でボッチャの選手と出会い、競技アシスタントとしてデビュー。世界大会にも帯同するなど、約3年間にわたって携わった。その後は日本ボッチャ協会に就職し、現在はスタッフとして全国での普及活動や日本代表のサポートなどを行っている。