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教育ジャーナル Vol.18-1
特別座談会 社会に開かれた学び
多様性×学校教育
誰一人取り残すことのない学校教育を「多様性」から考える➃【全4回】
特別座談会 社会に開かれた学び
多様性×学校教育
誰一人取り残すことのない学校教育を「多様性」から考える➃【全4回】
■物部博文教授(横浜国立大学教育学部)
■髙木信俊先生/リモート参加(東大阪市立鴻池東小学校)
■中島潤さん(認定NPO 法人ReBit)
※所属、肩書は座談会開催時のものです。
特別座談会 社会に開かれた学び 多様性×学校教育の最終回。
第3回に続き「誰一人取り残すことのない学校教育を「多様性」から考える」をテーマにして意見交換をしていただきました。
進行・文/岡本侑子
想像力の幅を広げるために
学びがある
中島 髙木先生、物部先生の実践は、目の前に相手がいたら逃げられない点で、学校の先生だからこその向き合い方をされているのだろうと、想像しながらお話を聞いていました。先生方が、このような問題が出た際にどうあればよいかという部分を、サポートする立場から考えると、先生方の実践を通じて対話を続けることが前提ですが、想像力のきっかけになる知識を、教員養成課程である程度体系的に身につけることができると、教員になったとき、実践に結びつけやすくなるのでは、と思います。
例えば、発達障害というテーマでくくられているものに関して、もし、発達障害という概念をもっていなければ、現場で「なぜ、この子はずっとやる気がないのだろう」と思ったり、感覚過敏という概念がなければ「この子はなぜ日常的な音をそんなに気にするんだろう」と思ったりするかもしれません。知識を全部、網羅することはできなくても、子どもたちの困り感や、課題として顕在化しているものの背景に「〇〇があるかもしれない」という想像力のきっかけになる情報提供は、先生の卵の状態である教員養成課程の学生さんたちに、ぜひお伝えしていきたいと思うところです。
第2回で、10代の自殺念慮・自殺未遂についての数字のお話をしましたが、子どもに何かしらの問題が起きているときは、問題があるとみなされている子どもこそが一番困っているかもしれないと、よくいわれます。先生方はこれを念頭に声がけをされていますが、困りごとの背景に「もしかして、自分は気づいていない別のものがあるかもしれない」と思えるかどうかの点が、かかわり方を変えるきっかけになると思うので、教員養成時に引き出しを増やしていただくのはとても大事だと思います。
アンコンシャスバイアス、無意識の偏見という意味で、「〇〇の人は××だろう」「△△な行動をしている人は□□が背景だろう」と、無意識下の決めつけで考えてしまうことは、これまでの生活の中で、私たち大人が身につけてしまっている習慣の一つかもしれません。これらを意識的に学び落とす実践や、先生方にもアンコンシャスバイアスを意識化する実践があるとよいと考えています。
また、髙木先生の社会科実践でのお話がありましたが、「公平、公正、社会正義」の公正について、今、企業の中では、従来の「Diversity and Inclusion」から「Diversity Equity,and Inclusion」の頭文字をとったDEIという3文字で語られることが増えてきました。
この概念をうまく表現したものとして、野球を観戦する3人の子どもたちの姿を描いたイラストがあります。背の高さが違う子たちが野球を見る際に、人によって必要な踏み台の高さ、つまりサポートが違うということですが、私が強く共感したのは、「この絵は子どもたちの背後から見た様子だけど、球場の中から子どもたちに視線を向けると、踏み台がない背の低い子は球場内から見えないことになる」ということです。これは、社会構造に気づくきっかけであると思います。
子どもたちが近い将来、社会をつくる立場として、主体的に意思決定し、行動する立場になることを考えたときに、今、社会から見えないものとされている人がいるかもしれないと想像ができることや、Equityという概念で考えると「踏み台(サポート)は特別扱いではなく、必要な合理的配慮である」という合意が取れていることは、これからの社会づくりに生きていく部分です。社会科に連結させながら実践されている髙木先生の取組は、子どもたちの深い学びにつながる意義あるものだと思いながらお話を聞いていました。
互いの気持ちを伝え合い、
確認して決めていく経験を
髙木 他教科との関連だけでなく、例えば、休み時間の過ごし方一つをとっても、問題提起や課題があります。発達障害やその傾向がある子どもたちのかかわりや、遊びに関するルールについても通じることがあり、彼らがどういったところに困っていて、どこに配慮が必要なのかという点を考えながら、子どもたちの様子を見取ることはとても大事です。
実際、クラスの中にケガをして走れない子がいる中で、玉入れ競技をするにはどんなルールをつくればよいかをテーマに、話し合う授業を行ったことがあります。まず、挙がったのが「ケガをした子がかわいそうなので、その子だけの特別ルールをあげよう」という意見でした。これには一つ問題があり、ケガをした子の意思はどうなのか? について確認する必要があります。ケガをした本人の意見を聞くこと、互いの気持ちを意見として交えていくことが公平ではないか、互いの気持ちを確認し合いながら決めていく、このような経験が子どもたちにとっては大切です。
物部 体育・保健体育科でも、運動が得意な子とそうでない子、ほかにも病気や障害がある子などさまざまな子がいますが、どのようなルールを決めたらみんなが楽しめる運動ができるのかを考える視点や経験が求められていると思いますし、この感覚を教員養成でも育成しなければいけないと思います。教員養成の内容も少しずつ変わってきていて、特別支援教育の専門でなくても発達障害を学ぶ授業を必修として受けるようになりました。学校保健、安全、性に関しては、専門教科に関係なく共通で学べるとよいと思います。
保健に焦点を当てると、一次予防、二次予防だけではなく三次予防、つまり、病気になっても周りからの支援やサポートによって、その人らしく生きられることが回復、寛解と捉えられるようになっているので、教員養成時に学んでアンテナを高くしてほしいと思います。結果として、豊かな学級経営にも生かされていき、世の中が変わっていくのだと思います。
中島 私も、物部先生のおっしゃる「世の中の変化」に期待したいです。ReBit(リビット)のキャリア事業では、主に企業で働く方々に向けた研修を行っていますが、そこで、違いをもつ人同士がどうやって一緒に気持ちよく働いていけるか、さらに広く捉えて、どうやって共に生きていけるかということを課題として考えていきます。
こうした実践の基礎体力がつけられるのは学校だと思います。テーマによらずに、一人ひとりが自分の意思を出し、互いに確認し合いながら意思決定をする経験があることは、とても重要だと思います。
ReBitの実践例を一つ紹介します。LGBTQだけでないさまざまな多様性について考えるということで、『LGBTQ×がん』という複数のテーマを掛け合わせる形で職場のDEI推進を考える研修を行います。
異なるテーマですが、重要な共通項としてポイントが二つあり、一つは、自分の困りごとやほしいサポートを言い出せる環境かどうかということ。もう一つは、周囲の人たちが勝手に先回りして本人が望んでいないことを決めていないかということです。
例えば、「がんの治療中の人は、大きなプロジェクトは大変だろうから外したほうがいい」や「トランスジェンダーの人は接客対応がきっと負担だろうから、営業職ではないバックオフィスの仕事にしてあげよう」というような、本人の意思を確認しないまま決められてしまうのではなく、「あなたはどうしたい?」と希望を聞き、それに対して自分の希望が言えるという、互いに話し合える環境が重要だと考えています。子どもたちが、学校という場で、どうしてほしいか、何を望んでいるかを対等に対話できるという機会は、大人になってからも生きる経験だろうと思います。
このとき、「急に休むとなれば周りに負担がかかる」「ほかの人はこのルールでやっているのに、この人だけ違うのはちょっとズルい」という話が出る可能性もあります。ですが、先ほどのEquityの概念と同じく、これらは特別扱いではなく必要な合理的配慮であることが前提の認識で、話し合えるかが重要になります。
先ほどの、体育が得意な子とそうでない子、骨折をした子などと、一緒に運動を楽しむにはどんなルールをつくったらいいのか話し合って決めた経験がある子が、やがて社会人になったとき、学校から仕事場へフィールドが変わっても、必要な合理的配慮という捉え方ができると思います。
物部 自分もいつ病気にかかるかわからない。そうなったときにどのような世の中であれば生きやすいのかという想像力が大事ですね。
中島 そうですね。話しやすい環境という点で、言いにくい話は〝実は……〟という言葉から語られるもので、〝実は〟は誰にだってあるものです。例えば、「実は親の介護が必要になるかもしれません」や「実は最近、子どもが不登校ぎみで急に休みを取るかもしれません」、もしかしたら「実はこの前のプロジェクトでミスをしてしまいました」という話だってあるかもしれない。こうなると、〝実は〟の開示がしやすい職場は、仕事面でもコミュニケーションが取りやすい関係性だということです。互いに〝実は〟が言い合えるということは、企業という組織体では成長とリスクマネジメントにつながります。
一方で、異なる意見を言いづらい全体主義的な環境になってしまうと、不正が隠蔽されてしまったり、漠然とした不安や疑問が解消されず、生産性が下がったり大きなミスにつながったりすることになると思います。
物部 〝実は……〟という各自が抱えていることが、結果として新しい視点や気づきを与えてくれることになり、集団や組織を成長させてくれると思うと〝実は……〟が言いやすくなりますし、「言ってくれてありがとう」ということにつながりますね。答えを探すのではなく、本質を捉えようとすること
髙木 実際に子どもたちが直面した話があります。休み時間に「みんな遊び」という活動で、フルーツバスケットをすることになったのですが、骨折してしまった子が移動できないという事態になり、ちょうど『公正・公平』のルールづくりについて学習に合わせて、子どもたちが話し合いをしました。骨折をした本人が「歩けない、早く移動できない」という困りごとを言うと、別の子が「歩いたら、おもしろくないよね」と言い出し、結局、フルーツバスケットの本質について話が深まっていったのです。この様子を見ていて、子どもたちはすごいなあと感心しました。
中島 当たり前だということへの問い直しにも通じる、すばらしい活動ですね。
物部「本質ってなんだろう?」を軸にして、どうありたいのかについて考える経験が学校教育の中で常に行われていると、子どもたちは本質を見極めようとする視点をもった大人になると思うので、社会がどんどんよくなっていくと、私は期待します。髙木先生の取組にとても共感しますし、子どもたちの話し合いの様子を見たかったです。
中島 私も本質に照らしてどうありたいかという問いを大切にしたいと思います。多様性に関して広く社会の中で語られるときに、「多様性を受け入れましょう」というような表現で語られてしまう側面があると感じています。そもそも本質に照らして、私たちがどうありたいか、どんな社会で生きていきたいかを考えた上で、多様性とどういう関係性でありたいかの問いに向き合うことだと思うのですが、このとき、「私たちは、自分が生きていきたいと思う社会をつくっていく力があり、そのために行動することができる」という実感は、小さな成功体験を積み重ねていく中でもつもので、これが得られるのは学校だと思います。話し合いで、状況に合ったルールに変えることができる、これまで当たり前とされていたものも、当たり前ではないかもしれないという感覚をもって大人になれば、自分、そして自分を取り巻く周りの人たちが、どうしたらうれしいだろうというところに対話が進んでいくと思うので、先生方とのお話から大きな希望を感じます。
学校は弱さを出し合い、
助け合っていける場である
髙木 弱い立場にある人がいる構造は、学校の中にもあります。2022年12月に、文部科学省の「通常の学級に在籍する特別な教育的支援を必要とする児童生徒に関する調査結果について」から、通常学級に通う公立小中学校の児童生徒の8・8%に発達障害の可能性があるというデータがありました。
学級経営をする中で、何かしらの困り感をもっている子がいる場面はいろいろなところにあります。得意・不得意、コンプレックスを含めて誰にでも弱い部分がある中で生きていますが、そういう意味で、ハンディキャップをもつ子たちとともに過ごすことの意味を子どもたちに感じてほしいと思い、困りごとにスポットを当てて、みんなで解決を考えていく活動をしてみました。例えば、算数が苦手な子から「ここがわからない」という発言が出ると、周りから「こうするとわかるよ」「こういう意味だから、こんな計算になるよ」といろいろな解決策が出てきて、理解の本質へとつながっていく様子が見えました。
こうした経験を教員が価値づけて積み重ねることで、子どもたちは「困りごとに寄り添うことは大きな学びになる」という実感が得られますし、どの教科でもできると思います。そのためには教員の意識が大事ですね。
中島 「困っている」と言ったら、自分だけではわからなかったいろいろな知恵が得られるという経験ができたこともすてきです。内閣官房の「孤独・孤立の実態把握に関する全国調査」(令和4年4月8日公表)の中でも、孤独感を感じる頻度が高い人ほど、「相談しても無駄である(相談しても解決しない)」と感じる割合が高いという傾向が見られましたが、それは、自分の困りごとを誰かに相談して助けてもらった、解決した、という経験や機会がないからかもしれない、と私は思いました。
髙木先生のように、安心安全なクラス内の授業の場で、困りごとのある子が「困っている」と言えること、そして、周りの子たちが困りごとの解決を一緒に考えていくこと、結果、困りごとが減ったという成功体験が得られることは、子どもたちのこれからの生き方にとっても大きな収穫です。
髙木 困りごとを言うことで、周りはその子のレベルに合わせなければならなくなる、レベルが下がってしまうと考えることは、子どもたちだけでなく我々大人ももっていることだと思います。弱い立場になって考えてみることが自分にとってもプラスであるという視点に変えていくことは、積み重ねの活動が必要だと思いますし、結果として、大人になってからの「違いを受け入れる」という考え方につながり、弱い立場にある人に「何かしてあげる」ではなく「一緒にしていく」という考え方に変わるのだと思います。
物部 心の健康という点で、9月1日が子どもたちの自殺問題になっていることは皆さんご存じだと思います。困っている子ほど相談できない実情をなんとかして改善しようと、さまざまなディスカッションがされますが、髙木先生のように、ふだんから困りごとが言える環境をつくること、困っていることを互いに言い合える学級経営や授業実践が、相談へのハードルを下げていくと感じました。
一方で、今の子どもたちはいろいろな期待を背負って学校に来ているように感じています。高学年になると、教室では鎧を着て、第三者から見られている自分を意識して過ごしている一方で、保健室では弱い自分を見せたりしています。これを、「教室でも弱い自分を見せても大丈夫」と思えること、このメッセージをどのように学びに変えられるかが先生方の課題になると思います。もっと子どもたちが生きやすくなってほしいです。
中島 弱さを見せて大丈夫という風土づくりは大人にとっても同様で、先生と呼ばれる立場の方は、より一層この部分が必要なのではないかと思います。「先生なのだから」「先生だからできるだろう」という教師にかけられる期待を、今一度、問い直してみることもできるかと思います。
もちろん、バランスは必要ですが、先生自ら「今、こういうことに悩んでいて困っているので、みんなも一緒に考えてくれるとうれしい」という話を子どもたちにしてもいいと思いますし、保護者に対しても「ここはぜひ皆さんの力をお借りしたい」と言うこともできると思います。さらに、同僚との関係性の中でも言い合うことができれば、ポジティブな方向につながるのではないかと、お話を聞きながら感じました。
物部 そうですね。保健でいえば、小学校3年生で、健康と生活についての学習で1日の生活を振り返る活動があるのですが、例えば、先生の名前を「〇〇さんの1日」と表現して、どう見てもお手本ではなさそうな表を出して、子どもたちから「先生、ゲームしすぎ!」と言われることもあってよいと思います。
中学生のがん教育の実践では、「今、がんについて学びましたが、担任の〇〇先生はどうしても検診に行きたくないと言っています。どう説得しましょうか?」と子どもたちに問うと、生徒たちはがぜん力が入って、積極的に授業に参加してくれます。先生は見本でなければならないという、ここでたびたび語られた思い込みの部分を取り払って、「先生だって難しい。みんなの力を借りたい」というスタイルがあっていいと思います。それが人間らしい姿ですし、魅力だと思います。
中島 そうですね。先生と生徒の関係性だけでなく、社会の中で一緒に過ごしている私たちそれぞれに対して言えることだと思います。「多様性」のタイトルで語られると、どうしても「○○というテーマ」について、「この人が多様性に該当する人」「この人はそうではない人」と区分けされてしまうことがありますが、実は、みんなに凸凹があって、それらを生かしながら「ハマったね」という瞬間があれば強みになることもありますし、「困っています」「誰か助けて」というときにヘルプが呼べることを知っていれば、新しい人がチームに加わることもあるでしょう。
違いを認め合うという話をしたときに、その起点は自分自身の中にあるものなのです。
物部 私も「自分自身が大切」がまずあって、なおかつ、上下の関係性ではなく、あくまでも水平方向の関係性で、相手をリスペクトして、「どんなことを考えているの?」から凸凹がうまくかみ合っていくことが、気持ちいい瞬間だと思います。
髙木 中島さんのお話を聞きながら、「ちょっと肩の力を抜かないといけない」と思いました(笑)。そういう部分はきっと子どもたちは感じているでしょうし、弱い部分があるのが当たり前だし、凸凹が人間らしさだということを、一つのモデルとして子どもたちに見せていくことも、大人の役割であるように思います。「ありのままの自分でいい」を互いに認められる第一歩は、自分自身を起点にするものなのでしょうね。
【了】
次回の予定
7月24日(月)
校長アンケート
教師という仕事「なりたい職業トップ3」を目指そう!
※次回のタイトルは変更になることがあります。ご了承ください。