〈対談〉SDGs×いのちの教育 ①
(2023年5月9日更新)
〈対談〉
SDGs×いのちの教育 ①
NPO法人いのちをバトンタッチする会 代表 鈴木中人
一般社団法人グローバル教育推進プロジェクト(GiFT) 理事 木村大輔
いのちに向き合うとはどのようなことなのか、生や死について、子どもたちにどのように伝えることができるのか、お話を伺いました。
いのちを輝かせた長女の生きざま
木村 いのちをバトンタッチする会の活動について教えてください。
鈴木 当会は、いのちの大切さや家族との絆を教育・啓発する「いのちの授業」を行っています。主な活動は四つあります。一つ目は学校や企業、行政などでいのちの授業を行う教育研修事業、二つ目は本や映画を制作する事業、三つ目はいのちをテーマにした講演やイベントなどを通していのちを見つめる社会啓発事業、四つ目は小児がんの子どもたちの支援です。私が会社員を辞めて、任意団体「いのちをバトンタッチする会」を設立したのは二〇〇五年ですから、活動を始めておよそ二十年近くになります。
具体的に説明するにあたり、まずは長女の景子の話をさせてください。娘のいのち、人生を意味あるものにしたいという強い思いが、今の私をつくっているのです。
長女の景子が小児がんを発病したのは一九九二年のことです。当時、私はどこにでもいる会社員。妻と長女の景子、景子の弟として生まれた長男の康平の四人家族で暮らしていました。
景子が三歳のときのこと。体調を崩して近くの病院に連れていくと……小児がんでした。頭の中が真っ白になりましたが、心の整理をする間もなく闘病生活を始めなければなりませんでした。治療で家族バラバラの生活を強いられるため、入院前日に景子にきちんと説明し、「お父さんとお母さんはいつも病院で一緒にいるよ」と話しました。すると彼女の第一声は「こうちゃんは?」でした。自分が大変な思いをするのに、最初に心配をしたのは弟のことでした。家族が一緒にいることがどれほど素晴らしいことなのかを思い知らされました。
つらい治療が始まった頃、景子が私に「私、天国に行っちゃうの?」と聞くのです。私は驚きましたが、幼くても状況をしっかり理解できることに気付き、治療や付き添いについて、きちんと景子に伝えることにしました。
その年の暮れ、年末年始で献血施設が休みになり、治療で使う輸血用の血液が足りなくなるため、治療をいったん休止すると医師から告げられました。私はこの時、景子のいのちは、会ったことのない名前も知らないたくさんの人たちに支えられていることを知りました。景子に話すと、彼女は輸血パックのほうを見て、「ありがとう」と小さく頭を下げました。
その後、治療の甲斐があって退院し、保育園に通園できるまで回復しました。その時皆さんが病人としてではなく、一人の園児として受け入れてくれたことがうれしかったです。
手術から二年が経過し、治療を終えられるかを調べる検査を受けたところ、脳に転移が見つかり、医師から余命が宣告されました。私たち夫婦は、できるだけ普通の生活を送らせようと決め、景子を地元の小学校へ通わせました。骨がもろくなっているため車いす生活でしたが、先生や友達に会いたいと、自分で車いすをこいで学校へ行きました。
景子の夢は「およめさんになること」でした。きれいなウエディングドレスに憧れていたのです。最後の誕生日、妻は「景子ちゃんの花嫁姿を、一度だけでいいから見たい」と真っ白なドレスを贈りました。治療のせいで髪は抜け、脳の手術跡があり、顔もむくんでいましたが、鏡に映る自分の姿にとても喜んでいました。同じ病棟に入院していた子からもらったかつらを被り、写真を撮りました。それが遺影です。景子はそのドレスを着て天国へ旅立ちました。
それから約五年間、私はこの経験を封印したかのように一切口にせず、現実から逃げるように仕事に邁進しました。
ある日、たまたま読んでいた本に「子どもの供養とは、親が生まれ変わること。子どもの分まで生きること」と書いてあるのを見て、涙があふれました。娘の死を受容しようとしているだけで自分は何も変わっていない……。自分に何ができるだろう……と。
そんな中、映画『おくりびと』の原作『納棺夫日記』の作者である青木新門さんに出会う機会があり、彼は私に「いのちのバトンタッチ」という詩を読んでくださいました。それをきっかけに、景子が自分のいのちを通して教えてくれたことを伝えることが、私にとっての「いのちのバトンタッチ」ではないかと考えたのです。話が長くなりましたが、当会の「いのちのバトンタッチ」の活動が、これでご理解いただけると思います。